TVアニメ「魔法少女まどか☆マギカ」は美樹さやかの回想である。

どうも、アリエです。

暇だったのでまどマギを見返しました。一週目を見たのはいつだっただろうか。おそらく三年前くらいかなと思います。劇場版は既に三回くらいは見返していたのですが、アニメ版をちゃんと通して見返したのは二回目ですね。

二週目を見たら、一週目では嫌いだった美樹さやかが好きになりました。僕は杏子ちゃんが好きだったので「よくも巻き添えにしやがったな」と思っていて、さやかのことが非常に嫌いだったわけですが、見返してみると「美樹さやか、なんていいやつだったんだ…」と彼女を見直しました。

誰よりも正義感が強く、その実誰よりも乙女心を持っている彼女。真っすぐで、不器用。そんな彼女がすごく好きになりました。

それと同時に、改めて彼女の「魔法少女まどか☆マギカ」における重要性に気づかされた二週目でもありました。

TVアニメ「魔法少女まどか☆マギカ」は美樹さやかの回想である。』なんていう大それたタイトルを付けてしまいましたが、今更ながら今回は彼女について考察していきます。

 

超越者としての美樹さやか

気になったのが4話のこのセリフ。

思えばその時のあたしはまだ何も分かっていなかった。奇跡を望む意味も、その代償も。

このようにさやかの語りが入ります。このセリフ以外に本作品において第三者視点からのセリフが語られることは無かった(はず)。まどマギで唯一のナレーションが入るシーン。

これが美樹さやかが超越者である何よりの証拠。

実際に美樹さやかは劇場版に置いて円環の理であることが明かされますね。

すなわちアニメ「魔法少女まどか☆マギカ美樹さやかの視点から振り返って描かれたストーリーであると考えられます。Q.E.D.

確かに主人公は鹿目まどかなのですが、彼女が俯瞰から放ったセリフは一つもなかったはず。(彼女も円環の理なので、この作品を俯瞰で語ることのできる数少ない人物ではあるが。)そう考えると美樹さやかの視点から描かれた物語であると考えるのが妥当。

ではそもそもなぜ美樹さやかが円環の理となったのか。

鹿目まどか魔法少女となり、円環の理となったとき、魔法少女から魔女が生まれることは無くなりました。(円環の理によって魔女になる前に浄化される)

そこで、最終話のまどかとさやかの会話。

さやかちゃんを救うには全てをなかったことにするしかなくって

このセリフは、全てをなかったこと=魔法少女という存在そのものをなかったことにすることを示していると考えられます。

美樹さやかを救うためには、彼女をそもそも魔法少女にしないことしか無い(彼女が魔法少女となれば、必ず穢れをため込み破滅してしまうため)のですが、鹿目まどかは世界から魔法少女を消すことまでは望まなかった。

そしたらこの未来も消えて無くなっちゃうの

でもそれは多分さやかちゃん望む形じゃ無いんだろうなって

魔法少女が存在しなくなるということは、魔法少女になる代償として叶えられる願いも無くなってしまうということ。この未来が消えて無くなる=上条恭介がバイオリンを弾くことはもう二度とない=美樹さやかが望んだ形ではないということ。

私はただあいつの演奏がもう一度聞きたかっただけなんだ

美樹さやかは上条恭介の手が完治し、再びバイオリニストとしての道を歩んでいくことを何よりも望んでいたわけで。でもその願いを叶えるためには、美樹さやか魔法少女になる=消えなければならない。だからこそ、美樹さやか巴マミ佐倉杏子らと共に魔法少女として生き続けることはできなかったのです。

そうして新しい世界線でも穢れを溜め込み過ぎたさやかのソウルジェム、円環の理に導かれて消滅。円環の理に導かれた美樹さやか鹿目まどかとの再会を果たし、劇場版では鹿目まどか美樹さやか百江なぎさの円環トリオとして再登場しました。(なぜ円環の理としての役割を美樹さやかが担えたのかは分からないが)

円環の理は時間および空間を超越する存在であり、過去未来あらゆる世界を見ることができます。おそらくそれは鹿目まどかだけでなく、美樹さやかも同じ(共有している)はずです。

つまり、美樹さやかもまた鹿目まどかと同じく全ての世界を見ることができる超越者であるわけです。(正確にはまどかの力を借りているからというもが正しいのかも)

4話で入った美樹さやかのナレーションは彼女が超越者(円環の理)である事の何よりの伏線だったのかもしれません。彼女が円環の理であることは劇場版で始めて明かされる事なのですがそこまで見据えてあのナレーションを入れたのだとしたら尊敬せざるを得ません。恐るべき虚淵玄

まどマギはフィクションによくある第三者視点、通称「神の視点」で描かれた作品ですが、まさに神と呼ぶべき存在「円環の理」からの視点で描かれているのだから面白いですね。