『けものフレンズ2』五話を叩いている人たちに言いたい。
『けものフレンズ2』五話を視聴した。
見終わった後の感想は「やっば、面白かった。次週めちゃ気になる!」だった。
しかし、Twitterでの感想を見ると
「かばんちゃん登場させるなんて信じられない。たつきを返して」
「つまらない。たつきを返して」
的な感想がいっぱい並んでいてがっかり。
ではなぜここまで「けものフレンズ2」が叩かれるのだろうか。
『けもフレ2』はなぜ叩かれているのか
「けもフレ2」の一話が放送されたときのTwitter界隈の反応はこうだ。
「かばんちゃんはどこ?かばんちゃんを返してよ!!」
この反応は自分にも理解できる。確かに一話を視聴したときは「キュルル?誰だよ、いいからかばんちゃんを出せ!」と思ったものだ。
しかし今振り返ってみると、かばんちゃんのシルエットがサーバルの回想で登場したことにより、この時点でけものフレンズ2の世界線は一期と同じであることがほとんど確定しており、一期との時間軸のずれやサーバルが記憶喪失?等の伏線が一気に膨らむ良い一話だったと思う。
そして何よりシルエットのかばんちゃんを登場させたことが、今後の展開にかばんちゃんが関わってくることを示唆する伏線であり、「かばんちゃん出しますよ」と宣言しているようなものである。
全く別の世界線で話を進めるのならかばんちゃんの存在をちらつかせる必要もないし、そもそも一期と関係のない二期など、もはや二期ではない。
『けものフレンズ2』というタイトルを謳っている以上、一期とのつながりがあるのは必然だし。
そして五話でついにかばんちゃんが登場する。
するとなんということだ。
「かばんちゃんを登場させるなんて許せない。」
等の意見がTwitter界隈ではびこっているではないか。
確かに「かばんちゃんはたつき監督が生み出したキャラクターなのに、たつきを降板させた上にかばんちゃんを登場させるなんて…」という言い分も理解できる。
僕もたつき監督がKADOKAWAに降板させられた時は憤りを覚えたし、「たつきを返せよ!!」と強く思ったことを覚えている。
一期の成功はたつき監督あってのことなのは間違いないだろう。
しかし、これらの理由だけで「けもフレ2」を叩いている人があまりにも多すぎるように感じる。
「けもフレ2」を叩いている人たちはたつきを神格化しすぎているのではないか。
たつきが降板された事実はいくら叩いたところで変わらないのだから、いつまでもたつきにとらわれずに『けものフレンズ2』という作品そのものを評価してほしい。
ましてや木村監督を叩いている人などお門違いも甚だしい。
木村監督がたつき監督をないがしろにして作品を作り上げようとしていると本当に思っているのだろうか。
五話だって一期のヘラジカとライオンの戦いを良くリスペクトして作っていたと思う。まぁこれをただのパクリと思うのも人それぞれだが。
かばんちゃんの登場は最初から決まっていた
こちらの記事を読んでもらいたい。
昨年12月の初めに公開された記事で、その中で木村監督は以下のように語っている。
――その中で、新しい要素として出てくるのが新キャラクターの“子供”や“カラカル”です。
木村 新しい主人公は必要ですからね。“子供”がどういうキャラクターになるかは実際に見ていただければと思います。“カラカル”は出してほしいという要望があったんですよ。前シリーズはサーバルとかばんちゃんの2人がメインだったので、サーバルと主人公と、もう1人増やすことにより絵面や会話で前シリーズとはまた違ったこともできたらいいなと思って登場させました。
――もちろん、前シリーズのキャラクターも変わらず活躍してくれるわけですよね。
木村 そうですね。そのほかにも新しいキャラクターはいっぱい出てきますが、前シリーズのキャラクターたちも出てきますので、どちらも楽しみにしていてください。とりあえず、ビジュアルにいるキャラクターは出ます(笑)。
かばんちゃんが急に登場したことに驚いている人が多くみられるが、かばんちゃんが二期に登場することはとっくの昔に明らかだったのである。
まぁ別にこの記事を読まなくても一話を見て普通に考えれば登場することは想像できそうなものだが。
正直けもフレ二期を一期と全く別の物語であると考えるのは無理があったし、
「一期とは別の物語として見てたのに、かばんちゃんを登場させるとか!木村監督クソ!!」
みたいに叩いている人はもう少し頭働かせて、どうぞ。
とにかくかばんちゃんが登場したことに対して怒っている方々に「なぜまだ視聴していたんだい?」と聞きたい。
『けものフレンズ2』にかばんちゃんが登場することはほぼ決定事項のようなものだったのにも関わらず、まるで裏切られたかのように木村監督を批判している人たちはきっとたつきのいない「けもフレ2」を叩くために視聴しているのだろう。
せっかく視聴しているのだから「けものフレンズ」というコンテンツそのものを見てほしいと思う。
炎上から見えるファン層
「けもフレ2」の感想を見るからに、視聴している層は二つに分類される。
まず、「けものフレンズという作品そのもののファン」
そして、「たつきのファン」だ。
たつきのファンは、たつきが作ったかばんちゃんがKADOKAWAに消費されることが気に食わないし、けもフレ二期に登場することが許せないのだろう。
たつきが好きだから、たつきを降板させた「けものフレンズ2」はその内容がどうであろうと格好の攻撃対象であり、ましてやかばんちゃんを登場させたことが燃料投下となってしまったのは仕方のない話である。
そして、五話が一番炎上したということが「けもフレ2」を見ているファン層をきれいに分断させたのである。
一話から四話も少なくない批判が集まっていたものの、五話ほどではない。内容がつまらない、というのだけでは叩くための材料としては少し弱いからだ。
しかしかばんちゃんが登場した今、「たつき監督の功績であるかばんちゃんを登場させるとは何事だ」という、「たつきのいないけもフレ」を叩くための理由を手に入れ、批判の声が集まり、一部の界隈では炎上という形になっているのだろう。
五話を叩いている人は「たつきのファン」であり「けものフレンズのファン」では無かったということである。
(たつきが作ったものこそが「けものフレンズ」なんだよ。だから「たつきのファン」こそが「けものフレンズ」のファンなんだよ。という人はアプリの存在等に関してはどう説明するのかだろうか。「けものフレンズ」というコンテンツそのものについて考えればアニメ一期こそが特異的なものであったとも言えるわけで。)
僕自身、別にたつき監督の騒動に興味が無かったわけじゃないし、最初は「けもフレ2」についても批判的にとらえていたけれど、「せっかく見るのだから…」と極力偏見無く観るようにしている。
一話から四話は決して面白いとは言い難い出来であったことは同意だが、五話が批判に値する内容だったとは思えなかった。
Twitterを見てみると、五話を批判している人が多い一方、面白かったと称賛する声も見られる。
作品そのものを楽しんでいる人には五話は面白く見えたのではないだろうか。かばんちゃんが出てくることは「たつき騒動」を考えなければ何らおかしくない展開で、一期と二期が繋がる熱い展開なのだから。
もちろんたつきファンからすれば五話が(たつき騒動の面から見て)面白くないのは当然な話で、この批判もあってしかるべきだと思う。
「二つの派閥のどちらが間違っている」みたいな話は不毛な論争になるだけなので結論付けることはしないが、両者の楽しみ方の違いが生んだ炎上であったということは言えるだろう。
叩いている人たちに伝えたい
僕は「けもフレ2」を叩くこと自体が間違っているとは思わないし、五話が炎上していることについても仕方ないことだと思う。
それでも木村監督を叩いている奴らは理解できない。
なぜ木村監督を叩くのだろうか。
たつきが降板させられたことが気に入らないならKADOKAWAを叩けば良いじゃないか。木村監督がたつきを降板させたわけじゃないのに。
そもそもかばんちゃんが主人公から外されたのもKADOKAWAの力が働いたからでしょ。その中で、このかばんちゃんの登場は最善の策だったと思う。
しかも「けものフレンズ2」という作品を作るのに、一期とのつながりを全く絶ってしまったら、それは何のための二期なの?となってしまうのではないか。
木村監督は「けものフレンズ」の続編を作っているのである。
批判が起こることは分かっているなか、「けものフレンズ」の続編を作ろうとする姿勢は純粋にすごいと思うし、木村監督が適当にこの作品を作っていると思っている人がいるのは悲しい。
「監督なんて誰でもいい」という発言は「監督だ誰かなんて気にせずに、作品そのものを楽しんでくれ」という考えのもとでの言葉だったのではないだろうか。
言い方が言い方だけに感じ悪く聞こえてしまうかもしれないし、Twitterでちょっと暴れてしまったのは擁護できないけれど…
設定が甘かったり、リスペクトが欠けていると感じる点もあるのは分かるけど、それにしても叩きが露骨すぎる気がする。
もし同じ内容で「監督:たつき」と放映されていたとしたら批判の声は半減以下になるでしょ。
ぜひとも批判している人は、監督騒動云々を考えずに作品そのものを見てもらいたいと思う。
本当に「けものフレンズ2」が叩くに値するのか。木村監督を叩くに値するのか。
まだ物語は半分も進んでいないのだから、これからの展開を楽しみに待ちましょうよ。
SSSS.GRIDMANを目の色から考察する
『SSSS.GRIDMAN』最終話が放送されましたね。
作品を通じて色々と意味深なシーンが多く、特に最終話は実に考察のしがいがありそうです。
そして、先日の生放送で監督が目の色に意味があるようなことを言っていたので、全力で目の色からSSSS.GRIDMANを考察します。
目の色まとめ
SSSS.GRIDMANにおいて目の色は大きく分けて3つに分類できます。
・青チーム
響裕太
内海将
宝田立花(ハイライト赤)
なみこ・はっす
新世紀中学生
その他一般人のほとんど
アンチくん(12話、右目のみ)
・赤チーム
怪獣
新条アカネ
アンチくん
アノシラス
・黄色チーム
響裕太(グリッドマン状態)
立花ママ
アレクシス
問川さきる
問川パパ
目が青色の人たちは一般人、神である新条アカネによって作られた人々。通称「レプリコンポーネント」。グリッドマン側の存在。
目が赤色の人たちは怪獣。新条アカネ側の存在。
目が黄色の人たちは外の世界から来た存在。新条アカネによって作られていない特異的な存在。
簡単にまとめると、このようにカテゴライズできるでしょう。
いくつかの疑問
目の色から3つグループにカテゴライズすると、不思議な点や矛盾点が生じます。
それらを一つ一つ見ていこうと思います。
①新世紀中学生の目はなぜ青色なのか。
新世紀中学生はグリッドマンの一部なわけですから、外部から来た存在であるべきなのです。なのに、目は黄色じゃない。(ボラ―だけはハイライトが黄色だけど)
目が青っていうことは、一般人であって、新条アカネに作られた人物であるということです。しかし、新世紀中学生が新条アカネによって作られたとは考えがたい。
主人公である響裕太は、やっぱり元はただの響裕太であって、あの世界において偶然グリッドマンに乗り移られただけの存在で、だからこそ、最初の方は目が青色だったのは理解できる。
そして自分がグリットマンであることを自覚したときに、目が黄色に変化した。
もし自分がグリットマンであることを自覚することが、目が黄色になる条件だったとしても、新世紀中学生たちは(おそらく)最初から自分がグリッドマンの一部であったことを理解しているわけで、だったら目が青色なのはおかしい話。
SSSS.GRIDMANより引用
第5話『挑・発』では、移動のシーン(つつじ台駅の外から出ると眠ってしまう)で一瞬回想が入ります。グリッドマンらしき者が何者かに刺され、その後、星が6つに散らばる描写です。
星が散らばる描写は1話にもあって、6つの星が何を示しているかを考えると、もともとグリットマンだったのが分裂した=グリッドマン本体+新世紀中学生4人+もう一人に分かれたと考えられます。
もう一人がアレクシスなのか、立花ママなのか、もしくは別の誰かなのか。僕にはわかりません。が、もともとグリットマンだったのが分裂したと考えると、アレクシスである可能性はまずないでしょう。なのでおそらく立花ママであると考えるのが妥当かと。
それはさておき、とにかく新世紀中学生たちはグリットマンの一部なのだから、外部からやってきた存在。やはり目が青色であるのは非常に度し難い。
この矛盾を解決するための仮説は以下。
①そもそも「外部からやってきた存在=目が黄色」という仮説が間違っている
②グリッドマンが分裂したのは新条アカネの作用によるもので、新条アカネの手が加わっている=新条アカネによって作られた存在である。といえないこともない。
①に関してはこれを認めてしまうと今までの説明が全て崩壊するので却下。
②は他にこれくらいしか考えようがなかったです。たしかに、もともとの『電光超人グリッドマン』において新世紀中学生は「アシストウエポン」と呼ばれる武器でしかなかく、SSSS.GRIDMANに登場したときのように人の形はしていなかったわけで。
彼らは本来外部からやってきた存在ではあるけれども、新条アカネの世界にやってきて初めて人の形で存在している。すなわち、新条アカネによって作られた存在であるともいえるわけです。
だからこそ、彼らの目は青色なのでしょう。そしてさっきも書きましたが、ボラ―の目のハイライトは黄色です。他の3人は目が小さくて分かりませんが、少なくともボラ―の目が一部黄色であるということは、彼は外部からやってきた存在であるし、そして同時に新条アカネによって作られた存在でもある、といえるのではないでしょうか。
②響裕太の目の色の変化
初期の裕太の目は青色です。
それは当然な話で、もともと裕太はただの一般人で外部から来た存在では全くもってないわけだから。言い方は悪いかもしれませんが、グリッドマンが乗り移っただけの乗り物なのです。
が、彼がグリッドマンそのものであることを自覚したとき、彼の目は黄色に変化します。
これもまた当然な話で、この瞬間、響裕太≒グリッドマンという式が成り立ちます。
響裕太はグリッドマンそのものなのです。まぁまだ完全体ではないのですが。
SSSS.GRIDMANより引用
先ほどの新世紀中学生は、もともとはただの武器だったのに、新条アカネの手によって人として存在している者たちでした。
しかしグリッドマンに関して言えば、グリッドマンそのものは新条アカネに一切干渉されておらず、ただその世界にもともといた「響裕太」という少年に乗り移っただけの存在です。
だからこそ、彼は純粋に外の世界からやってきた存在で、目は黄色であるのが当然なのです。
同様に、アレクシスも新条アカネを利用するために外部から侵入してきた宇宙人であって、彼も純粋な部外者といえます。なので彼の目が黄色であるのも納得がいきます。
③立花ママは何者か
目が黄色である存在のうち、明らかに特異な立花ママ。
彼女の正体は一体何者なのか。
SSSS.GRIDMANより引用
あくまで推測に過ぎませんが、飛び散った星の一つがこの立花ママであったと思います。彼女の発言などを見ていると、どこか何か知っていそうというか、すこし俯瞰でしゃべっているような印象を受けます。
彼女がグリットマンの一部であったとも考えにくいですが、外部からやってきた存在であるのはまず間違いないかなぁと。
受け売りですが、彼女のつけている特徴的な耳飾りは『宇宙パトロールルル子』に登場する「ミドリ・セイブザワールド」の第三の目と同じらしく、CVも新谷さんで同じだそう。
立花ママは実は「ミドリ・セイブザワールド」で、新条アカネの電脳世界をパトロールするためにやってきた?
僕は『宇宙パトロールルル子』を観たことがないので何とも言えませんが。
④問川は外部の存在なのか
新条アカネに早々と退場させられた問川さきる。
彼女の目を見ると黄色なんですよね。色の感じも非常に立花ママとかに似てる。問川パパも同じく黄色です。
他に同時に退場させられた4人はというと、別に黄色くないんですね。問川家だけが特別のようです。
じゃあ彼女は外部の存在かと聞かれると、真実は僕には分かりません。普通に考えたら彼女はただの一般人だから、外部の存在ではないでしょう。
強いて一つ特殊な点を挙げるとすると、彼女に関する小説が一つあるようです。
→https://ncode.syosetu.com/n3113el/
『中、見ないでよ』っていう、小説家になろうに昨年投稿された作品です。
彼女について、僕「米澤 喜孝」視点で語られています。誰だおめぇ。
この小説はSSSS.GRIDMANの前日譚。新条アカネの電脳世界で語られたものなのか、もしくは現実世界で語られたものなのかは微妙なところ。
小説になっている人物はもう一人いて、古間亜子視点の『私の知らない他校の制服』という小説もあげられています。
で、これらの小説が現実世界の話だと仮定します。
注目するのはグリッドマンのED。このEDは背景が実写であることからも分かるように、現実世界の学校生活が描写されています。
そして、EDに登場する人物に注目してみます。はっきりと登場するのは、立花、アカネ、なみこ、はっす、古間亜美、ラモだけです。
問川さきるは登場していないんですね。だから彼女が現実世界に存在したという証拠はありません。かといって彼女が現実世界に存在しないって分かったわけでもないのですが。
まぁこれはただの推測に過ぎません。
SSSS.GRIDMANより引用
すこし話が逸れますが、これは2話のOPで映った集合写真です。問川やバレー部の人たち、そしてアカネがいません。
話の流れ的に考えれば、怪獣によってバレー部5人が殺され、存在が消滅したことにより集合写真も書き換えられたということになるでしょう。
じゃあなんでアカネがいないのかというと、①欠席している②フィクサービームによって世界が修復された後に撮られた集合写真である
という可能性が考えられるわけですが、まぁ後者でしょうね。
2話に挿入された写真なのに、実は最終話後の世界だったっていうね。
フィクサービームをもってしても、消えてしまったレプリコンポーネは修復できなかった。また、新条アカネは元の世界へ帰った。
この写真はそういった背景から生まれた写真なのでしょう。
⑤立花の目の色
立花の目は青色です。が、ハイライトは赤色で描かれています。
SSSS.GRIDMANより引用
これにはどういった意味があるのでしょうか。
そもそも青色の目は、新条アカネによって作られた存在「レプリコンポーネ」の特徴。赤色の目は、怪獣、新条アカネ側の存在の特徴です。
もちろん立花はグリッドマン同盟を結んでおり、グリッドマン側の存在なので、ベースは青色です。
しかし、彼女には特別な背景があります。それは、新条アカネを好きになるように新条アカネの怪獣から作られた存在であるということ。
電脳世界は新条アカネによって作られたものありますが、一人一人彼女がコードしているわけではないはずです。そうだとしたら、新条アカネが気に入らないような存在が出てくるはずがないから。
彼女は神ですが、万能ではない。彼女にとって気に入らないことが良く起こる。
そんな中で、立花は新条アカネによってコードされた人間であることはまず間違いありません。
立花はアカネの本当に望んだような行動をはしなかったけれど、立花はアカネのことをずっと好きであり続けた。これは揺るぎない事実であると思います。
立花はグリッドマン側でもあるけれど、アカネに寄り添い続ける存在でもあった。だから、彼女の目は青と赤の二色なのでしょう。
⑥オッドアイのアンチくん
12話のラストの方。
アンチくんが目につけていた包帯がほどけ、右目が青色になっていることが明かされます。
初期にアンチくんが登場したとき、彼は両目とも赤色でまぎれもない怪獣でした。
しかし最終話、彼の右目が青色に変化しています。
じゃあいつ変わったのか。おそらく、初めて彼がグリッドナイトとして戦ったときに変化したのではないかと思います。
「ほんとに君は失敗作だね」
彼は新条アカネに作られた怪獣ですが、失敗作だった。どう失敗作だったかというと、彼は中途半端だった。怪獣でもないし、人でもない。そんな中途半端な存在。
そんな失敗作の彼だからこそ、アカネを救うことができたのでしょう。
そして、目が青色になっていることからも分かるように、怪獣でも人でもなかった彼は、怪獣でもあり人でもある存在になったといえるのでは無いでしょうか。
新条アカネが元の世界へ帰った後も、その世界線は続いています。しかしもちろん、その世界線にはもうグリッドマンはいません。
でもその世界にはもう一人のグリッドマンがいるのです。そう、それがアンチくん。彼は第二のグリッドマンとして、この世界を守ってくれることでしょう。
まとめ
今回は、SSSS.GRIDMANを目の色から考察してきました。
まだ考察しきれていないところや、こじつけがましいところ、間違っているところが多々あると思います。そしたら教えて下さい。ぜひ議論しましょう。
もうちょっと詳しく考察したいと思ってるので、また考察記事を別に上げるかもしれません。とくにラストの実写シーンとEDの関係とか。
いやぁ、しっかしいいアニメでしたね。グリッドマン。できれば『電光超人グリッドマン』を見たうえでもう一回見直したいなぁと思います。
TVアニメ「魔法少女まどか☆マギカ」は美樹さやかの回想である。
どうも、アリエです。
暇だったのでまどマギを見返しました。一週目を見たのはいつだっただろうか。おそらく三年前くらいかなと思います。劇場版は既に三回くらいは見返していたのですが、アニメ版をちゃんと通して見返したのは二回目ですね。
二週目を見たら、一週目では嫌いだった美樹さやかが好きになりました。僕は杏子ちゃんが好きだったので「よくも巻き添えにしやがったな」と思っていて、さやかのことが非常に嫌いだったわけですが、見返してみると「美樹さやか、なんていいやつだったんだ…」と彼女を見直しました。
誰よりも正義感が強く、その実誰よりも乙女心を持っている彼女。真っすぐで、不器用。そんな彼女がすごく好きになりました。
それと同時に、改めて彼女の「魔法少女まどか☆マギカ」における重要性に気づかされた二週目でもありました。
『TVアニメ「魔法少女まどか☆マギカ」は美樹さやかの回想である。』なんていう大それたタイトルを付けてしまいましたが、今更ながら今回は彼女について考察していきます。
超越者としての美樹さやか
気になったのが4話のこのセリフ。
「思えばその時のあたしはまだ何も分かっていなかった。
このようにさやかの語りが入ります。このセリフ以外に本作品において第三者視点からのセリフが語られることは無かっ
これが美樹さやかが超越者である何よりの証拠。
実際に美樹さやかは劇場版に置いて円環の理であることが明かされますね。
すなわちアニメ「魔法少女まどか☆マギカ」
確かに主人公は鹿目まどかなのですが、彼女が俯瞰から放ったセリフは一つもなかったはず。(彼女も円環の理なので、この作品を俯瞰で語ることのできる数少ない人物ではあるが。)そう考えると美樹さやかの視点から描かれた物語であると考えるのが妥当。
ではそもそもなぜ美樹さやかが円環の理となったのか。
鹿目まどかが魔法少女となり、円環の理となったとき、
そこで、最終話のまどかとさやかの会話。
「
このセリフは、全てをなかったこと=魔法少女という存在そのもの
美樹さやかを救うためには、
「そしたらこの未来も消えて無くなっちゃうの」
「でもそれは多分さやかちゃん望む形じゃ無いんだろうなって」
魔法少女が存在しなくなるということは、
「私はただあいつの演奏がもう一度聞きたかっただけなんだ」
美樹さやかは上条恭介の手が完治し、
そうして新しい世界線でも穢れを溜め込み過ぎたさやかのソウルジェムは
円環の理は時間および空間を超越する存在であり、
つまり、美樹さやかもまた鹿目まどかと同じく全ての世界を見るこ
4話で入った美樹さやかのナレーションは彼女が超越者(
まどマギはフィクションによくある第三者視点、通称「
映画『メメント』を観た
どうも、アリエです。
タイトルの通り、『メメント』という映画を視聴しました。
これがなかなか衝撃的な作品でした…
流石はクリストファー・ノーラン作品だなって感じで、オチで一杯も二杯も食わされた気がします。
ネタバレになるかもだけど、だんだんと時間軸が遡っているということにすぐに気が付けなかったのが痛かった。
30分くらいたってようやくどうやって時間が流れているのかを理解しました。
この監督の代名詞的作品である『インセプション』もかなり難解なストーリーでしたが、この『メメント』も負けずとも劣らない難解さでしたね。
『メメント』のテーマは「記憶」であると思いますが、『インセプション』の「夢」とも似たような波長を感じました。
自分が記憶している「記憶」とは本当に正しいのか、その正しさはどこからきているのか、そもそも正しくないのではないだろうか。
すなわち自分の記憶というのはもはや「夢」にすぎないのではないのか。
記憶というのは不思議なものですね。
どこかしら自分にとって都合のいいように無意識的に取捨選択しているかもしれないわけで。
その時点で自分の主観が介入してしまうわけだから「記憶」というのは客観的な情報ではなくなってしまう。
記憶を思いかえすという動作は、ただ夢を見ているだけなのかもしれない。
そんなことをこの作品をみて思いました。
BUMPの新曲『新世界』が好きすぎる
ベイビーアイラブユーだぜ。
ロッテとBUMPのコラボCMが公開されました。
このCMで使われているBUMPの新曲『新世界』聴きましたか?
これマジでめっちゃいい…(恍惚)
「ベイビーアイラブユーだぜ」が頭の中で無限ループしてます。
最近BUMPが出した曲の中だと『Spica』が一番好きだったんですが、無事『新世界』が記録を更新しました。
初めて聞いたときにビビッときましたね。
「泣いていても怒っていても 一番近くにいたいよ
どんなに遠く離れていても 宇宙ごと抱きしめるよ
ベイビーアイラブユーだぜ ベイビーアイラブユーだ
明日がまた訪れるのは 君と生きるためなんだよ」
BUMPがここまでストレートなラブソングを歌うのは初めてなのでは。
でも「愛してる」とか「好き」みたいな世に飽和した言葉を並べるんじゃなくて「ベイビーアイラブユーだぜ」っていう詞を使うのがBUMPらしい。
「僕の今日までが意味を貰ったよ」
なんて言えるような人と出会えるのかな。
少なくとも僕はBUMPの曲たちに生きる意味を貰っている気がします。
アルバムはよ。
プレステ楽しい
こんばんは。アリエです。
PS4の年末年始セールとPayPayの20%キャッシュバックのおかげでかなり安く買えたんですよね。
しかもソフトが無料で2本ついてくるのです。
僕は「スパイダーマン」と「Horizon」にしました。
どっちもアクションゲームですね。
どちらかというとスパイダーマンの方に期待してたんですが、いざやってみるとホライゾンが楽しいこと楽しいこと。
スパイダーマンは悪く言えば少し予想どおりというか、すこし新しさに欠けるかなぁといった感じです。
いや、操作感とか爽快感とかはすごくいいんですが、ちょっとすることが短調になる感じが大きいかなぁと思います。
そしてホライゾンはこれめっちゃ難しい。もうすでに何回死んだか分かりません。
そこらへんを歩いてる敵にでも二発で殺されます。
死にまくりですよ。別に死にゲーってわけじゃないんですけど。
難易度はノーマルですが、それでも十分すぎるくらい難しいです。
ただ、絶対にクリアできないっていうわけでもなくて、何回かやってうまく立ち回りとかを考えてやればクリアできるよってレベルなので、そうやって試行錯誤するのが楽しいです。
武器にも種類があって、有利属性や不利属性、敵の弱点やその他部位の特性など、そういう要素を覚えながらやらないといけないのは少し大変かもですが、そこも面白いところではあります。
すでに10時間程度プレイしていますが、いまだにストーリー進行度は10%ちょっとです。
ついつい途中で寄り道しちゃったり、サブクエストを優先でやっちゃったり。
果たしてクリアするまであとどのくらい時間がかかるのだろうか…
あとは、ストーリーもこれからの展開が楽しみです。どうやって、この世界感の伏線などが回収されていくのか。
まぁ気長に進めていきたいと思います。